「南無阿弥陀仏って、どういう意味があるのだろう?」
私が28歳になって数日後に他界した父の葬儀場で、皆さんが「南無阿弥陀仏」と唱えてくださっていた時、感謝とともにふとそんなことを思いました。どなたからもしっくりくる答えをいただけなかったため、広尾の有栖川宮記念公園の中にある都立中央図書館に行き、広辞苑で「南無阿弥陀仏」を調べてみました。その時、初めて「南無」が感嘆詞であることや、阿弥陀仏という方の結願、そして人生で一回だけ「南無阿弥陀仏」と唱えることで誰でも極楽浄土に行けることを知りました。
そもそも、念仏を唱えるだけで往生できるという教えは、法然から親鸞へと受け継がれて浄土真宗が生まれました。法然上人が「念仏は一日数万回」と唱える必要を説いたのに対し、親鸞聖人は「念仏は一生に一回だけでいい」とされました。
そんな親鸞聖人との問答を弟子の唯円が書き残したのが、今回ご紹介する『歎異抄』です。
この本には、悪人と善人のことについて、
「世間の人は普通『悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない』といいます。これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのこころに反しています。自力で修めた善によって往生しようとする人は、本願のはたらきを信じる心が欠けているため、阿弥陀仏の本願にかなっていないからです。」
と書かれています。このくだりは当時の私にはあまりにも衝撃的でした。
また続けて、
「自分の勝手なはからいで、善と悪を分けて『善は往生の助けになる』『悪は往生の妨げになる』と考えることは、誓願の不可思議なはたらきを信じず、自分の力で浄土に往生しようと努め、称える念仏をも“自分の行”とみなしてしまうことになる」
と説かれてもいます。これでは「方便の浄土」に往生してしまう、と。要するに、“自らはからうな”ということです。善人も悪人もすべての人が浄土に往生できることこそ阿弥陀仏の結願であり、その世界観がとても新鮮でした。そして「この世のほとんどのことはまだ解明されていない」というアインシュタインの言葉と通じるものがあると感じたのを覚えています。
『歎異抄』の中でも、私が最も好きで、思わず笑ってしまい、同時に心を動かされたのが第十三条。親鸞聖人が弟子の唯円に「唯円房は、わたしの言うことを信じるか」と問いかけ、唯円が「はい、信じます」と答える場面です。すると親鸞は続けて「それでは、わたしの言うことに背かないか」と重ねて尋ね、唯円が「つつしんでお受けします」と返します。
すると親鸞はこう言われるのです。
「まず、人を千人殺してくれないか。そうすれば往生はたしかなものになるだろう」
もちろん唯円は断ります。この続きを読んで、私は人生で初めて「縁」というものの本当の意味を知ったように感じました。
先代が他界して数年後に天狗の鼻を折られ(汗)、35歳で全てを失う覚悟をし(運よく生き延びましたが)、45歳でコロナ禍の打撃により業界の誰もが「ヤマダイ食品は終わった」と口にする中でも、そんな死線を楽しみながら乗り越えられたのは、歎異抄の親鸞聖人の教えが頭のどこかにあったからなのかもしれないと思います。
私の口癖である
「どうせ裸で生まれてきて、裸で還っていくだけなんだから」
という魔法の枕詞も、『歎異抄』の影響を強く受けていると改めて気づきました(笑)。
どんな窮地でもニヤニヤしながらこの枕詞を口にすると、
「折角だから楽しもう」
と心から思えます。
知識人の多くが「もし一冊だけ無人島に持っていけるとしたら?」にこの本を選ぶ理由も、よくわかります。
『歎異抄』――あまりに有名な本ですので、もし未読の方がいらっしゃれば、ぜひオススメさせていただきます。