「志を立てて以って万事の源と為す」
どんな偉業であっても全ての物事は一人の志から始まっている。
私の座右の銘の一つです。
この言葉の主が「世に棲む日日」の前半の主人公、吉田松陰です。
後半の主人公は私の大好きな高杉晋作です。
本書には、時代の転換期のエッセンスが詰まっています。私自身、20代の頃から10回以上読み返してきました。
今回は「吉田松陰編」「時代の転換期編」「高杉晋作編」の三部に分けて、私が長年読み続けてきたこの名著をご紹介したいと思います。
まずは吉田松陰について。
160年ほど前のこと、私たちが現在の国家体制がひっくり返るなんてことが想像できないように、当時250年近く続いていた徳川幕府は、当時の人々からすると天地そのもののようなものでした。それがペリーの黒船来航をきっかけに大きく揺らぎ、江戸幕府は終焉へ向かい、やがて明治時代が幕を開けます。
明治政府は、現在の国家体制の基礎にもなっている中央集権体制の基礎でもあります。そんな徳川時代の幕を閉じ、明治の時代の幕を開けた中心的な存在が、長州藩と薩摩藩。政治的な動きに終始した薩摩藩に対し、「藩をあげて発狂した」と司馬遼太郎氏に書かせてしまうほどの活躍!?をした長州藩の一部始終が描かれているのが、「世に棲む日日」です。
この著書によると、長州藩が大きく変わったのは「松陰以後」とあります。
「それ以前の長州藩というのは、ただの大名であったにすぎなかった。『ただの大名』とは、平凡(なみ)の大名のように幕府を怖れ、幕府の要人にはすきまもなくつけとどけをし、幕府のいやがること、たとえば国政に口出しをすることや京の朝廷に政治的に接近することはいっさいせず、ひたすらに事なかれですごしている藩のことをいう。長州はそれであった。」
とあります。
それほど幕府を怖れ、事なかれ主義の平凡だった長州藩を「松陰が、それを変えた」とあります。
たった一人の若者が長州藩を変え、それがキッカケになって徳川幕府が倒れ、明治という時代が始まった。そのたった一人の若者こそが、吉田松陰です。
この吉田松陰が松下村塾で、門下生約90名に教育をします。
その結果、半分以上が幕末の戦禍で命を落とし、生き残ったのは数十名。そのうち2名が内閣総理大臣になり、7名が国務大臣になりました。他にも爵位を授けられた人も多数。
これだけでも驚きですが、それ以上にすごいのが、「生き残った人たち」よりむしろ、「幕末で命を落とした門下生」の中にこそ、歴史に名を残す人物が数多くいた、という事実です。
実際、初代内閣総理大臣になった伊藤博文や財務大臣になった井上馨などは、高杉晋作(後半の主人公)の子分でしたし、前原一誠や吉田稔麿、久坂玄瑞など、松下村塾からは歴史的偉人が多く輩出されます。
しかも驚きなのは、吉田松陰が松下村塾で教えた期間は、わずか3年ほど。
加えて、「松下村塾の当時のかれは二十七、八の書生にすぎず」「藩の罪人であり、その体は実家に置いて禁固されており、外出の自由すらなかった」という条件下でしたので、特に選抜テストをして生徒を選んだわけではありません。
極端な表現をすると、たまたま近所にいた子供たち90名を、たった3年弱教育したら、その子供たちの多くが歴史的な人物になってしまった、ということです。
一巻から二巻の最初にかけては、吉田松陰という奇跡のような偉人について、
・長州藩が藩をあげて育ててしまうこと
・そして黒船に対して、狂気でも屈服でもない反応をしたアジア人で、たった4人の中の一人として黒船に乗って世界を見ようとしたこと
・子供たちに、たった3年ほどの期間で教育をしたこと
・歴史を転換させるキッカケを創ったこと
が描かれています。
もちろん、戦略家らしい、現代にも十分通用する古典の教えも随所に散りばめられており、経営者として勉強になる場面の多い本でもあります。
松陰の叔父でもあり、師にもあたる玉木文之進によれば、「サムライの定義は公のために尽くすものであるという以外にない」「侍は作るものだ。生まれるものではない」と言う環境で育ったことが基本となり、十歳で長州藩主・毛利慶親の前で「武教全書」の「戦法篇」を講義しています。
「『用士』というくだりは、藩主が感嘆したほどに名講義であった。『用士は士を用ふるにて、此の篇、上家老よりして下群臣に至るまで、其の中にて賢才を目きき挙げ用ふるの法を云ふ。士を挙げ用ふること主将たる人の上にての急務なり。如何となれば、主将何程才能ありても賢才集まらざれば、治には国を治め民を安んずること能わず、乱には戦へば必ず勝ち、攻むれば必ず取り、国威を天下に振ひ、大業を後代に垂るること能はざるものなり。後醍醐天皇、中興の大業を成し給ふは、大塔ノ宮をはじめ新田、楠、名和、赤松などの名将多く集まればなり。漢の高祖帝王の業を創め給ふは、張良、蕭何、韓信などの如き賢才多く集まればなり。』」
と、たった十歳で話したそうです。
また、
「世俗の仕事をあまりに稚(わか)いころからやらせすぎると人間が小さくしか成長しない」
「『大器をつくるにはいそぐべからざること』松陰の生涯の持説である。『速成では大きな人物はできない。大器は晩く成る』」
という、現代の常識に生きる我々には少し違和感のある教えもあります。
そして、私が人事においていつも心がけていることが、
「『人には得手と不得手がある。英雄にも愚者にもそれがある。それを見ぬいて人の得手を用いるがよい。また人にはかならずいやなところがある。たとえば残忍、欲深というのはひとのいやがるところであるが、そういう人物ですら長所があり、それを親切に見てやらねばならない』
『古語にもいう、庸勤(ようきん)ノ士ハ得ヤスク、奇傑ノ士ハ得ガタシと。平凡で実直な人間というのはいくらでもいる。しかし事に臨んで大事を断ずる人物は容易にもとめがたい。人のわずかな欠陥をあげつらうようでは大才の士はもとめることはできない』
『大事には』と、松陰はいう。『大人物を用いよ。小事には、小人物をあてよ。それが適材適所というものである』」
という一節です。
この考えは一般ではなかなか通用しませんが、これは真理の一つだと私は強く思っています。
あとは、
「『古(いにしえ)に仿(なら)えば今に通ぜず、雅を択べば俗に諧(かな)わず』」
その意味は、
「古学ばかりの世界に密着しすぎると、現今ただいまの課題がわからなくなる。また、格調の正しい学問ばかりやっていると、実際の世界のうごきにうとくなる」
という一節を知り、20代でバランス感覚の重要性を理解できたのも、とても役立ちました。
そして、これはシェイクスピアの『ヴェニスの商人』、いわゆる“ユダヤの商人”にも通じますが、
「『人間たる者、自分への約束をやぶる者が最もくだらぬ。そういう吉田寅次郎なら、江帾君においても私を友とするに足らず、よろしく捨てよ』」
という、約束を守ることの重要性も吉田松陰は理解していました。
また、村田清風からの教えとして、
「『砲技に達せざる者は兵を論ずるなかれ。孫呉に通ぜざるものは砲を謤(かた)るなかれ』鉄砲の操法や部隊の進退法に達しない者は戦術を語るな。つまり実技のやれない者は理論をいうな。その逆も真である。孫呉(孫子・呉子・戦術)に通ぜぬ者が、実技を論ずるな、ということである」
というものがあります。
実際主義者である私も、これには全く同意しています。
そして、私が思う吉田松陰の真骨頂といえば、「狂」です。
「松陰の用語でいえば『狂』であった。松陰は、狂がすきであった。人間の価値の基準を、狂であるか狂でないか、そういうところに置くくせが松陰にはあった」
とあります。
そんな松陰が長州藩を脱藩中、
「松陰はちょっとはずかしそうな顔をして、『きょうは先君の命日ですから』といった。恵純は、内心おどろいた。浪人ではないか。藩から放逐されているくせになおも先代の藩主の忌日をおぼえていて、その日の精進をこの若者はまもろうとしている。竹院は後で恵純からこのことをきき、『物事の大事というのは、ああいう男でないとできないものだ』と、声をひそめて言った」
とあります。
「百術一誠に如かず」を実践していた吉田松陰という人物には、学ぶところが多々あります。
また第一巻で、論語と孟子についても触れています。
「論語、それは孔子の語録である。一面からいえば処世術のにおいもある」
と、ちょっと論語を……した後で、
「乱世の中を孤客としてゆく孟子の劇的な行動性、雄弁、論理性、そして『千万人トイヘドモワレユカン』というあの気概を松陰は愛した」
とあります。
孟子と論語をこうも看破できるのは、素敵だと思います。
最後に、佐久間象山との対話の中で、
「『生を捨てることが、寅次郎が先刻申しましたる“平素の工夫覚悟”であります。生をすててみれば、視界は雲なく霧なく、きわめて澄みわたり、世の現象がいかにもクッキリとみえ、自分がなにをすべきかの道も、白道一筋、坦々として眼前にあります。左様に死生の思案において、寸刻もわすれず、毛ほどもまどわなければ、先生のおっしゃる義理の究明――なにをどうなるべきかの究明――も、結論はまあまあ大略ながら、すぐさまに得られます。』」
と言い切った吉田松陰。
私自身、まだその境地には至っていませんが、そうありたいと、常に心を練っている今日この頃です。(吉田松陰編)