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日本食の未来

うどん考察<1>

うどんについて考えています。国民食の一角をなし、あらゆる地域で少しずつ異なる食べ方が存在するうどん。さまざまなシーンで登場するようになったことで、我々ヤマダイ食品もまたうどんを対象にしたメニュー開発に取り組んでいます。しかし、すでに山のようにさまざまなメニューがあるなかで、当社ならではの味わいをどのようにつくるのかというのは難題極まりない。どうしても、現代に溢れるさまざまなメニューから着想を得ようとしますが、表面的なアプローチだけでは堂々巡りに陥りやすい。ということでまず、今いちど「うどん」を理解しなければならないと思い至りました。

うどんの原料は小麦。小麦は人類最古の作物のひとつであり、1万年以上昔よりメソポタミア文明において栽培されてきたとされます。さて、この小麦をうどんにするにはそこから長い年月がかかっています。というのもまず、小麦を粉にしなければならないからです。世界では粉食と粒食という大きく二つの方法で、主食となる穀物を食しています。たとえば、日本のご飯は粒食、フォーのような麺は粉から麺にするので粉食ということになります。

原始的な社会において、粉にしてから作りやすいもののひとつはやはりパンでしょうか。粉にして、水を混ぜてこねればいいだけですからね。焼く技術はさらに太古より存在するので問題なかったはずです。となると、当時のパンのようなものは、もちろん、現在のようにふわふわでしっとりしているようなものではなく、もっと固い粉の塊といった具合が最初でしょうか。となると、製粉の技術、最初は石臼とかですかね。この道具は、すでに1万年以上前、メソポタミア文明の小麦栽培の近くの遺跡から発見されているようです。

農業技術は戦争によって世界に広がりますが、もうひとつ交易によっても広がりを見せます。世界でこうしたルートで最も有名なもののひとつがシルクロードです。西に向かえばヨーロッパ、東に向かえば中国です。歴史的に常に文化文明の最先端であったこの2つの地域で、粉食は劇的に進化します。ヨーロッパでは無数のパンが生まれ、パスタも生まれました。中国では、肉まんなどに用いられる蒸しパン、そして無数の麺、さまざまなものを包むようなシート上のものへと姿を変えていきます。この流れの中にうどんの源流があると考えるのが自然でしょうか。

 

日本へは、遣唐使や遣隋使といった留学生たちによってもたらされたのでしょう。他にもお茶や漢字文化などが同様ですね。そして、調理技術の発達に合わせて、各地でさまざまな食され方がされるようになりました。しかし、うどんが麺であり、素材が小麦である点において大きな変化はありません。

現在において、完全に新しい食材や食品が誕生しているか、と言われたら決してそんなことはありません。もちろん、遺伝子組み換えや交雑種といったものは存在しますが、肉は肉ですし、野菜は野菜です。そうしたもの以外で、見たことも聞いたこともないような食材があるか、また科学的に生み出されているかと言われたら難しい。培養肉なんかは、もちろんとてつもなくすごい発想と技術ですが、やはり「肉の再現」ということに他なりません。そういう意味で、私たちは地球環境下で生まれるものを逸脱するものを作り出し自然界に放つことも許されていないわけですから、基本的に「素材」となるものが劇的に変わってしまうということはなさそうです。もちろん、環境破壊による「絶滅」を除くとして。

しかし一方で、どちらかと言えば「味覚」において、完全に新しい味わいというものは確かに存在すると言えます。たとえば、和菓子の世界では「和菓子の甘さは干し柿をもって最上とする」という言葉がありますが、現代においては上限などないような甘さも存在します。辛味、苦味、旨みなども同様だといえるでしょう。これらは、素材のなからさらに抽出されポテンシャルを最大化した調味料などによる効果が大きいとも言えます。

さて、というように考えてみると、うどんを中心として食品を考える場合は、やはり「味わい」に大きなポテンシャルがあるということになるのかもしれません。それは歴史のような大きな目で見れば誤差でしかないかもしれませんが、今のわれわれからすると「こちらのほうがおいしい」というのは、はっきりとした違いとして認識できます。つまり、同じメニューでも「おいしい」の差別化を実現できるポイントがあるのです。また、全く異文化の味わいを発見し日本に持ち込むことも可能でしょう。世界は世界で進化しているわけですから、今この瞬間に想像もしてなかった味わいが生み出されている可能性は否定できません。これはいわば「違い」ということになるのでしょうか。

私たちの「違い」はどこにあるのか。うどんの麺のように長く、そして太い道筋に終わりはないようです。

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