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-第4回- 四日“いち”高いビル

まずは四日市で一番背の高いビルのてっぺんを営業所にする。現在代表を務める樋口が、大学卒業時最初に取り掛かった秘策だった。やり方は無茶苦茶もいいところであった。先代であった父親が場を外した時に、用意していた賃貸借契約書に会社の代表印をこっそり捺したという。会社の誰も知らず、誰にも知らせることなく、四日市市内にある一番高いビルのフロアの一角に、ヤマダイ食品の営業所ができた。先代にとっては青天の霹靂のようなできごとであったことだろう。社内の誰もが呆気にとられたという。しかし、だれにも祝福されることのなかったこの一手が、今後のヤマダイ食品の快進撃の幕開けとなる。

 

できない理由がない。

中学時代は自由すぎる少年だった樋口が、ひょんなことから四日市の進学校に合格する。歴史ある伝統校の風習に溶け込めなかった高校時代を経て、大学は東京に登った。通ったのは目白にある名門だったが、大学時代の樋口は止まってはいなかった。ITバブル真っ只中の熱狂のなせる技だったのかもしれないが、21歳の時にはIT企業をひとつ立ち上げている。この時、ヤマダイ食品との関係はすでにあったが、オフィスを借りる際にしてもヤマダイ食品の信用を使わなかったため、新宿すべてで断られてしまい(その後中野でも断られた)、高円寺の少々治安の悪い雑居ビルに小さなオフィスを構えた。

 

そして大学時代に樋口は2つの国に旅に出る。1つはベトナム、1つがアメリカである。ベトナムでは、貧困層の何も恐れない圧倒的貪欲さに衝撃を受けた。彼の地で、「この国の人間たちにいずれ日本はのみこまれるのだ」という畏怖を抱いたという。アメリカでは、NYの摩天楼と先進性に衝撃を受けた。アトランタでは、コカコーラの一枚のポスターに触発された。そこには、コカ・コーラは世界で最も有名なブランドと記されていた。彼らにできて、我々にできない理由がない。そう考えた樋口は、日本に戻り、ヤマダイ食品の営業本部立ち上げを決意する。22才の時であった。

 

四日市に戻る。

当時のヤマダイ食品は、食品の下請け会社であった。オーダーを受けて、さまざまな品物を作っていた。もとは、貝の佃煮だったものが、工業化が進む四日市では港がコンクリートに覆われ、砂浜がなくなった。貝も取れなくなり、漁港は瀕死の状態となった。そこで、海藻を使ったり、野菜を使ったり、肉を使ったりと、あらゆることをやっていた。そこを脱却しようと、樋口は、BtoB向け食品のメーカーとなることを決める。そのためには、営業力が必要だった。そこで、自社独自の営業所を立ち上げ、四日市高いビルの一角に、という話となる。

この一手によって、会社の意識は劇的に変わった。自分達でもできることがあるのだ、という自信とも文化ともおぼつかないが、確かな風潮が生まれたのである。こうして、ヤマダイ食品は全く新しい価値をもった歩みをし始めることになる。もちろんこれは結果論であり、当時の関係者たちは呆気にとられたか、面白がったかのどちらかしかなかったであろう。しかし、確かに変化が始まり、それは加速していったのである。

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