ギフトが最大化される場所。
現代社会において最も重要な存在のひとつである「都市」。SF小説の大家アーサー・C・クラークの『都市と星』や、映画『マトリックス』にて描かれた都市の姿は、ほとんどすべて現実社会において実現しています。国家や貨幣といったものと同様、人間が作り出したマクロな存在価値としては「都市」は大発明と言っていいでしょう。「都市」がもつ最大の魅力は「ギフト」にあるといえます。たとえば、これほど多くの人間が一箇所に集まる仕組みは他にありません。移動距離も最小で極めて多様性に富んだ出会いがあり、技術、アイデア、富が集約され、さまざまなイノベーションが起きやすい環境ができあがります。ひとつの情報にはさまざまな刺激が加わり続けるため、意思決定も加速されていきます。これらはすべて、我々が都市にいることで得られる「ギフト」と言ってよいでしょう。
一方で「ギフト」にはやっかいな側面があります。依存が起きやすいのです。心理学に「強化-感情モデル」という概念があります。これは自分を強化してくれるような恩恵を提供してくれる存在には良い感情を覚える、という人間の心理的な側面を表しています。ギフトを提供し続ける存在(たとえば企業)に対して、我々は最初に懸念を、最終的には信頼と好意をもつのと言えるのかもしれません。都市が我々に提供し続けてくれるギフトは膨大です。したがって、我々は本質的に都市に依存していく傾向があると言えます。
近年では、巨大なプラットフォームをもつIT企業なんかは、こうした構造を存分に理解し応用しているように感じます。彼らの提供するギフトと依存関係は、都市と人間の関係に極めて近いように思います。となると、「都市」というのは現代においては物理的な建造物と人の集積地だけではなく、巨大なプラットフォームにも当てはまる言い方なのかもしれません。
贈与論と都市。
人類が原初から体験してきた「ギフト」に関しての研究を行なってきた事例があります。フランスの社会学者であるマルセル・モースです。「贈与論」という書籍があります。主にポリネシアの島々の部族を研究したものですが、現代の理解にも通ずる名著とされています。たとえば、ポリネシア圏の部族において富を象徴することは、得られたものを集落の人に分け与える(贈与)ことにありました。その行為は「ポトラッチ」と呼ばれました。こうした風習は重視され、貨幣が登場した時代においても道徳的にそれらを「貨幣」で行うことはケシカランことである、と考えられたとされます。
たとえば、今私たちが果物をたっぷりもっているとします。今年は豊作でした。しかし、肉がありません。そこで、海の村にいきます。そこでも同様に大漁であったため魚がたっぷりありました。しかし、彼らには果物がありません。これを交換することは、栄養的にも等価交換と言えます。しかし、ある時期は果物はたっぷりとれ、魚は不漁でした。その場合、果物をえるために「次に大漁の時にこれを持ってきてくれれば交換する」という保証を示した品物と果物を交換します。これが貨幣の役割の原初でもあったと考えられています。つまりこれは、未来に“とれる予定の魚”を手に入れる権利をうつすのです。
一見これは理にかなっているように見えますが、すでにバランスが崩れていることにお気づきでしょうか。仮に果物が永遠に採れ続ける場合、魚を提供する側は一回分負担が大きくなってしまったのです。これではバランスが崩れてしまうので、原初の贈与においては、豊富にもっている人々は分け与えることで「貸し借り」の概念で社会のバランスをとった、と考えれば良いでしょう。ここに貨幣という「未来の信用」をもちこむことは効率的ではありますが、やはり本質的な均衡が崩れてしまうことは否めません。本来の贈与の考え方としては、あくまで人間社会は助け合いとバランスなのであり、そこに祭りのような儀式によって「分配」をしながら、権力のバランスと精度を保つという機能があったと考えられました。
ローカリティの本質。
「都市」の対比として「地方」が挙げられますが、都市が人間的なギフトの集積地であるのに対して、地方は地球的なギフトの生産地であると言えます。残念ながら、都市は人間が生きていくために必要なものはほとんど生産していません。食料や素材です。これらはすべて地球からのギフトである、と考えればわかりやすいです。これらを収穫し、加工し、人間が使える状態にしている大半の機能は地方にあります。これらは地球からのギフトを人間社会の役に立つ形で加工しているわけです。逆に言えば、地方がなければ我々は都市生活ができません。
つまるところ、生活のために最も重要なのは地方であり、我々はそこからの「ギフト」に依存していると言えます。贈与という観点でいえば、都市は地球のギフトを地方が加工提供しているものを恩恵として受けとっています。そしてさらに、人間だけが情報交換することで得られる情報のギフトによって、それまで見たこともなかったようなギフトとして加工しなおしたり、アドバイスする機能を保持しているのが都市だとも言えます。
さて、こうした都市の機能はコロナや戦争によって麻痺することがありますが、地方が保持している生産の機能は人間社会の基礎中の基礎なため止めることができません。仮に止まると、都市は困窮します。地方も都市も、どちらもなくてはならないものですが、優先順位はその時々の立場や目線、状況によって行きつ戻りつします。人の原点が何かの見極めが肝心ということでしょうか。
食品というのは、こうしたすべての縮図です。理由は簡単。我々は食べなければ生きていけないからです。私たちヤマダイ食品グループの挑戦は、人間社会が取り組むべき挑戦でもあるのかもしれません。